2020年9月25日金曜日

城址廻り4回目。最後は仕事やなくて里帰り中のランニング。

長男と甥っ子を連れて広島城に行ってきました。


季節は8月の夜明け前、嫁の実家から2人を連れて出発。もちろん最初はみんな元気、と言うか甥っ子はテンション高め。サッカー始めて足腰には自信があるそうです。あらかじめ距離は伝えてたんですがまぁこの不安は的中します。

 

小さく山越えをした後、以前もご紹介した1.2㎞で120mの高低差を駆け下り一気に街中へ。走る方はご存知でしょうが、山下りは結構足にキます。振り返ると甥っ子くん、顔は大丈夫そうですが、たまに思い出した様に走り出したりちょっと止まったりマズイ傾向。まだ1/4

 

平地に入り東へしばらく進み、北側から遠くに城を臨みます。ここで折り返し。

まだ涼しいと思っていた外気もこの頃からどんどん上がってきました。セミも絶好調。

そして明らかにいっぱいいっぱいな甥っ子。さぁどうしよ?


行きが下りなら帰りは上りなのは当たり前。待ちくたびれ気味の長男には先に帰ってもらい、最後の2㎞はほぼ歩き(ちょいちょい休憩)でなんとか帰宅。やれやれ。

 

この後、嫁からお小言をしっかり頂きました。一方、親御さんは冷静。

やりきった顔はしてましたがもう付いてこんやろうなぁ。

 

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城内へは南側へ大きく回る必要もあったため、後日、小学生の末っ子も連れて改めて行って来ました。

 

広島城は西国の大大名となった毛利元就の孫・輝元により、太田川の形成する低湿な三角州を利用して築城されました。当時、一帯を己斐浦(こいのうら)と呼んでいたことから別名「鯉城」。

 

明治以降も軍都・広島の軍用地として引き継がれ昭和までその風格を示しますが、残念ながら1945年、原爆の破壊目標とされ崩壊してしまいます。しかし1958年、天守は鉄筋コンクリート製で市の象徴として復活を遂げ、その他、平成に入り〈馬出〉と言われる二の丸表御門なども当時の工法により復元され現在に至ります。


城内には被曝した樹木が散見され、マルバヤナギもそのひとつ。

たくましく生き続けるその姿は無言ながら命の強さを感じさせてくれるとともに、平和な令和の世へ感謝の意を表しているようにも見えます。


話がシリアスになりそうなので、謎のゆるキャラで締めます。

広島城再建60周年記念「しろうニャ」だって。

 

以上、今月のコラム担当でした。またね。



2020年9月18日金曜日

城址廻り3回目。予告通り今回は沖縄。

本島北部名護市の名護城(なんぐすく)。


季節は12月。学会の発表でおよそ12年ぶりに沖縄の地に降り立ち、天気はイマイチながら気持ちは高揚。ただ会場の恩納村周辺にはリゾートホテル立ち並び、ここはノリじゃ泊まれねぇと、さらに1時間北上した名護にホテルを取ることにしました。美ら海水族館近いしね。

 

泊まったホテルのすぐ脇にはいい雰囲気の居酒屋もあり、結局ここには3日間入り浸ります日々、オリオンビールと泡盛漬け。お世話になりました。



夜は倒れても、一応仕事で来ています。すっきりと会場に向かうためにも朝走っておきたい。というわけで、市街東側に広がる名護岳上の名護城に向かうことにしました。


まずはホテルを出て国道58号線を東進。大通りながら店舗もギチギチに並んでいるわけでなく、素っ気なくも素朴な沖縄独特の街並みが続きます。看板が無いため、何度となくGoogle mapを確認しますが曲がるたびに道が細く合ってんの、これ?


左手側に見える低い山上へ向かうやや開けた車道を見つけ、ここから約1km登ります、登ります、登ります。胃からも汗が噴き出す感覚。


途中から未舗装の道に逸れさらに登ります。徐々に何やら原野になってる気が

ちょっと待て、ハブって年中無休ですか?


これを越えると開けた広場が。 あれ?これが名護城址??

ちょっと意外でした。帰宅後調べてみると、名護城は14世紀頃の地方豪族である名護按司の居城として築城。時代的にもいわゆる石垣などは無かった様です。ここからは市街地を見下ろせず、庁舎的な役割は少なかったことが分かります。


ここから西側に名護神社を通り抜け、再び名護市街へ。

大幅に時間をオーバーしてホテルへ戻り、大急ぎで学会会場へ向かいました。

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最終日、飛行機まで時間があったので少し足を伸ばし今帰仁城(なきじんぐすく)へ。こちらはドライブ。


全長約1.5kmの堅牢な城壁は14世紀頃、名護を含めた沖縄北部一帯を治めていた北山王国の首都として威風を示しており、200011月には首里城跡などとともに〈琉球王国のグスク及び関連遺産群〉として世界遺産にも登録されています。


2月には満開を迎えるヒカンザクラもすでにちらほらと咲きはじめており、1時間程度その遺構を楽しんだ後、家路につきました。次はやはり夏に行きたいですね。

2020年9月11日金曜日

城址廻り2回目。前回は山の上だったので今回は海城を。

大分日出町の日出城。別名を暘谷城(ようこくじょう)と言います。

なんだかカッコイイ!


別府湾の北側に位置し、関ヶ原後の1602年に木下延俊により興された日出藩の藩庁として築城。木下家と聞いてもピンと来ない方も多いのですが(私も調べながら書いてます)、明智光秀の盟友・細川藤孝の娘婿と言えばやっぱ分からん。


先に書いた通り南に別府湾を臨み、その海岸に湧く真水に洗われたマコガレイは〈城下カレイ〉と呼ばれ、むしろこちらの方が有名かもしれません。


ランニングで訪れたのは5月のまだ涼しい早朝。前日に飲み過ぎて胃が裏返りそうな中、わずか1km足らずのホテルから向かいました。JRの線路を越え、標識に従って進むと鬼門櫓の姿が。最初、これが天守かとも思ったんですが周りに堀も無く余りにも道路沿いにポツンとあるので、そのまま奥に見える堀に沿って時計回りに進むことにします。


西に進むとすぐに「町立日出小学校」の看板(後で調べると、明治維新に合わせて売り払われた様子)。早朝とは言え何となく酔っ払いが足を踏み入れるべきでは無いと感じ、そっと後退。

その横には銅像。帆足萬里と瀧廉太郎でした。瀧家は日出藩家老の血筋で、その菩提寺も近くにあるとのこと。

〈荒城の月〉も日出城のことか、とこの時勝手に得心(どうやら違ったようです)。

一方、「豊後の三賢」のひとりと言われる帆足萬里…ごめんなさい、知りません。また勉強しておきます。

そのまま石垣に沿って松林を抜け、南に向かい海岸線へ。ここまで全く酔いが覚めていなかったんですが、眼前に別府湾が広がり、足元に小さな定置網も見られた光景に少し気持ちが落ち着きました。


海岸から見上げるとなかなか壮観。天守が残っていればさらに迫力があったんでしょう。

今気付きましたが海撮ってなかったですね。


往復でわずか2.5㎞の道のり。アルコールもそこそこ抜け、その後、いつも通り調査を済ませ帰路に着きました。


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次回は沖縄。泡盛に散ります。

 

2020年9月4日金曜日

どうも お久しぶりです。

海洋の「走る」担当も前回から約2年。

 

今年はコロナの影響で残念ながら目的のマラソン大会は全て中止です。

過去大会を振り返るのもいいんですが、せっかくなのでここ数年、出張時のランニングにかこつけて各所の城址廻りをしてきましたので、今回はそちらをいくつか紹介したいと思います。

 

まず1回目は熊本県芦北町の佐敷城

 

戦国後期に豊臣氏より肥後国を預けられた加藤清正により築城され、薩摩国の島津氏の侵攻を食い止める要害として活躍したようです。城郭はすでに失われていますが、現在も九州西部を縦断する国道3号線と内陸に向かう人吉街道の合流点を見下ろし、当時、重要な拠点であったことが窺われます。


ランニングに行ったのは4月早朝。薄明かりの中、国道3号線から佐敷川沿いに回り込み石畳が敷かれた街並み保存地区へ。その奥から花岡山上にそびえる石垣に向かって舗装された道路を登っていくと「佐敷城跡」の看板が見えます。標高88mとはいえこの時点でかなりヘロヘロ。


ここまでは車道が整備されていたんですが、これより上は山を削った当時を復元。

周りに誰もいないしうっかり足を滑らせたらシャレにならん、慎重に歩を進めます。ランニングなのに。

 

ぐるっと半周しながら、階段状に続く三の丸、二の丸を上がりようやくたどり着いた本丸から城下を見下ろすとこんな感じ。

↓は足元に佐敷川が見られるので東側でしょうか。

眼下には薄いながらも雲海が広がり〈天空の城〉を味わうことが出来ました。

こちらは西側。奥に八代海が見えている。はず。


日の出近く刻一刻と風景を変える中、来た道を戻り、この日も現場をこなして帰路につきました。

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これを書きながら、7月の豪雨災害でこちら芦北町でも佐敷川が溢れ住宅が冠水するなど大きな被害を受けたことを知りました。1日も早い街並みの復興と住まわれている皆様の心身のケアが成されることを願って止みません。